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2007年1月

2007-01-24

「捏造!あるある大事典」と花王の逃げ方

 フジテレビ系(関西テレビ制作)の「捏造あるある大事典」が、例の納豆関連ネタの捏造発覚で番組が打ち切りになったとのこと。

 

 私がまんまとやりやがったな?と思うのは、この番組開始以来の「一社スポンサー」である花王の、今回の一件に対する立ち居振る舞い方である。

 花王、スポンサー降板 関西テレビ「あるある」 第三者で調査委(フジサンケイビジネスアイ 2007/01/23)  

 関西テレビの情報番組「発掘!あるある大事典II」(フジテレビ系)が虚偽のデータやコメントを使って納豆のダイエット効果を取り上げた問題で、単独スポンサーの「花王」(東京都中央区)は22日、番組提供を降りることを決め、同局側に通告した。

 花王は1979年10月から始まった「花王名人劇場」のころから同放送枠のスポンサーを務めていた。同社広報部は「信頼性のある番組であることを要望していたが、今回それが損なわれた。非常に遺憾」としている。同番組の存続について、関西テレビは「早急に検討する」としているが、難しい状況になったとみられる。

 また、同局は22日、局長らによる危機管理委員会を開き、原因究明を行う調査委員会を外部識者など第三者のみで構成することを決めた。また、調査委員会とは別に、危機管理委員会の中にこの問題に関する対策本部を設置し、社内メンバーによる調査班も設けた。

 一方、番組を制作した関西テレビ(大阪市北区)やキー局のフジテレビ(東京都港区)への視聴者からの苦情や問い合わせが、22日午前までに2600件を超えたことが分かった。

 フジテレビに対しては、20日から22日までの電子メールが約1600件、電話が800件を超えた。関西テレビは集計は電話だけだが、22日午前11時までに約280件に上った。内容は「信用していたのに裏切られた」などの苦情がほとんどで、フジに対してはキー局としての責任を問う声もあった。

 

 …たしかこの番組が始まったのは1996年だった。もうあれから10年以上経っている。控えめに見積もって、「体にいい食品ネタ」を2週間に1回しかやっていないとしても、この10年で25×10=250回もやってるわけだ。

 …250種類も「体によい食品」があるのなら、それこそ、体に害をもたらす「タバコ」などを除けば、何を飲み食いしても何らかの側面で必ず「体によい」はずである(苦笑)。そんなことに、一社スポンサーである天下の「花王」様が気づかないはずもあるまい。

 しかも、この番組は2004年に、司会者交代も含む大幅リニューアルもしている。「これ以上ネタを出し続けるのは難しい」と、一社スポンサーである天下の「花王」様が、思わないわけはなかろうに。花王様がこの時に思ったであろうことは、「番組の質より視聴率優先」であろうと私が推測するのはこのような理由からだ。

 この私の推測が正しいとすると、上記の記事で、

>同社広報部は「信頼性のある番組であることを要望していたが、今回それが損なわれた。非常に遺憾」としている。

 などという「偉そうな」コメントを出し、このコメントのせいであたかも「信頼を裏切られた被害者」であるかのように振る舞うことに成功しているのが、今回の一社提供である天下の「花王」様(しつこい?)なのである。 

 現実問題として、番組の存続がスポンサーからの支払いに依存している以上、この番組が無理矢理にでも持続させられてきた責任の一端は、スポンサーである花王にもあると当然言わねばなるまい。

 

 私はこの番組はほとんど見ていないから、この番組自体に対する怒りはほとんどない。まぁ捏造や「やらせ」はあるだろうなと思っただけである(無意識のうちに、テレビには捏造があって当然という認識を持っていることの是非はさておく)。しかし、この一件に本当に怒り心頭である人々は、関西テレビやフジテレビに怒るより、この番組制作の資金源であり、なおかつ民放では番組に絶大な発言力を持つ「スポンサー」の「花王」に対して、もっともっと怒りをぶつけるべきであると思う。

 特に、今回のように「一社提供」であるような番組の場合は、むしろ番組を作っている側が「トカゲのしっぽ」の側で、CM放映により利益を得ている(とその会社が判断しているからスポンサーになるわけだが)スポンサーの側が「トカゲの頭」の側であるように、私には思える。関西テレビやフジテレビだけを叩いて、義憤に燃えている気になっている人は、申し訳ないが、ずいぶんとおめでたい人間なのだなあとしか私には思えない。

 

 

一転嘆きと憤り、茨城の納豆今度はキャンセル続出(読売新聞)(2007/01/22) - goo ニュース

 全国の納豆生産量の約5割を占めるとされる茨城県では、大手メーカーの品不足を穴埋めするため大口の注文が入っていた中小メーカーにキャンセルが入り、廃棄処分がでかねない状況だ。

 日立市の業者は、7日の番組終了後、スーパーからの注文が通常の7、8倍になり、土日返上で生産していた。しかし、20日に番組内容のデータ捏造が発覚して以降、スーパーからの注文が止まった。業者は「納豆は発酵させて出荷するまで3日かかり、先を見込んで製造していた。ずいぶん在庫がかさんでいる。賞味期限が過ぎたら処分するか、お世話になっている人に差し上げるしかない」と嘆く。

 別の業者でも20日以降、大口注文がキャンセルになった。同社は「これまでに作ったものは引き取ってもらえることになったが、注文を受けて大量に確保した大豆や容器などの保管場所の確保に頭が痛い」と憤っていた。

 

 これからは、食品業者も、注文者に対して直前のキャンセルにはキャンセル料を取らなきゃいかんのではないか。メディアリテラシーのない頭の悪い消費者と、資本主義の名の下に無責任な注文とキャンセルを繰り返すバカ小売業者のせいで、貴重な食材が大量にゴミと化していく…。こういうバカどもが、また別の場所では平気で「昨日のテレビ見た?日本は食糧自給率を上げなきゃいけないんだ!」などと熱く語った気になるのであろう。

 

 えーと、今思いついたけど、似たようなことやっている番組…みのもんたの思いっきりテレビ! …あれはどうなんだろうね。何とも言えないので確定的なコメントはしないでおこう。ただ、私はあれも「怪しい」と思っていることだけは書いておく。

 

TBさせて頂きました。事実確認のリンク先としてよくまとまっています。いつもありがとうございます。

ないない大事典?!それとも、あるある大偽典?!やっぱり「あるある詐欺」?!(My Personal Links+様)

納豆ダイエットは嘘(Dogma and Prejudice様)

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2007-01-13

いじめをめぐる言説「いじめられる方にも問題はあるって言うな!」の罠

 さて。いじめ問題に関する私の考えを少しずつ言語化していきたい。

 いじめに関してよく出てくる言説の一つが、「いじめられる方にも問題はある」という言葉をめぐる以下のような反応である。

「いじめられている子に対して、『いじめられる方にも問題はある』なんて言っちゃうと、もういじめられている方は八方ふさがりになるわけ。だから、いじめられている子に対して、『いじめられる方にも問題はある』なんて言葉は絶対に言っちゃダメ!」

 この発言は、数ヶ月前の「太田総理」での、以前いじめられていたという某アイドルによるものだ(細かい語尾などは違うだろうが、主旨の面では正しいはずだ)。そしてこの発言に対して、あの太田光も、涙を浮かべながらウンウンうなずいていた(ここ一番でウルウルするのは、彼の常套手段である。相変わらず浅ましい)。前回の記事で批判した、スマスマのいじめ特集でも、スタジオの百数十人の子どもたちにも、「いじめられる方にも問題はあるか」という質問が投げかけられたし(そして義家もお約束のように激怒したわけだが)、2chの実況スレでも、以下のような意見があった。実に象徴的な意見だと思うし、このテーマは、いじめを考察する一つのポイントになるだろう。

 

653 名前:名無しでいいとも! 投稿日:2007/01/08(月) 23:44:17.54

いじめられてるって訴えたら「お前にも原因があるんじゃないのか?」
ってなにもしてくれない先生も義家先生も同じ。

イヤだ、って自分でいわなきゃとか正論を言って終わり。

泣けばいいとか、ちゃんとうったえなきゃダメだとか。
けどさ、これって遠回しに「言わないor言えない私らが原因だ」って言ってるようなもんだよ。

私からすれば、この先生と過去の担任どもとの違いは
お前にも原因があるんじゃないの?って口に出すか出さないかの違いだけだよ。
そしてそんなこと十分わかってるよ。

 ※3段目の「この先生」とは、義家のことだと思われる。

 
662 名前:名無しでいいとも! 投稿日:2007/01/08(月) 23:47:48.68

 >>653
「言うっきり」なんだよね
その後の職を失ってでも守る!という気概が無いという意味では
そういう先生はいじめに荷担してるも同じ

 

  この意見は、おそらく義家や「何もしてくれない」学校の先生を批判しているものだと思う。そういう前提で読めば、この人は、何に対して怒っているのかが見えてくる。それは、「いじめられている方にも問題があると考えることはいやだ」という思いである。

 しかし、こういう思いは、「それだけ追いつめられているのだなあ」という、「どうにもならない感」は伝わってくるが、落ち着いて考えてみると、ある大切な前提を忘れている発言であることもわかる。それは、

  子どもでも大人でも、「完全無欠な人間」などいない

という前提である。この前提に立てば、いじめられている方にも、周りから嫌悪感を持たれた原因はあったかもしれないのだ。ただし、だからといってその子がいじめられるのも仕方がないと言っているわけではないことに注意してほしい。

 自分にも、周りから嫌悪感を持たれた原因はあったかもしれないと考えることは、実は「自己を相対化して考えること」の一つである。いじめに遭っていない大人でも似たようなことを考えることは多々あるだろう。「自分は、周りから浮いていないだろうか。どうすれば対人関係はもっと良くなるだろうか。そのために自分ができることは何だろうか」ということ、例えばそういうことである。そのぐらいの軽い気持ちで、自分にも至らない点はあったのかもしれないと考えてみることで、逆に「自分がいるこの学校やクラスは、今の私のキャパでは『つきあえない』ので転校する」という決断が、より軽くできるようになるのかも知れない。←私は、塾と比べて学校でのいじめが格段に多い原因の一つは、学区によってこの学校に行かなければならないという「所属集団の固定化」により、今所属しているクラスや学校からはじかれると生きていけないという「後がない感覚」であると考えている。小中学生の転校が行いやすくなれば、短期的にはいじめによる痛ましい事件は減るだろう。

  子どもでも大人でも、「完全無欠な人間」などいない

という前提は、いじめる側を再教育するときにも役立つ。「むかつくから」「空気が読めないから」「人に迷惑をかけるから」など、親がバカなせいで、実にいろいろなきっかけでいじめが始まるようになったであろうが、 

例えば、

「むかつくから」…お前は誰からもむかつかれないのか?なぜそんなに自信があるんだ?

「空気が読めないから」…お前はどんな集団でも空気が正確に読めるのか?今オレが考えていることを読んでみろ!

「人に迷惑をかけるから」…お前は誰にも迷惑をかけていないのか?本当に迷惑をかけていないのか?

という問いかけを、いじめている側に、しつこく、具体的に繰り返すことで、いじめる側にも「他者の視点で周りを見る」という能力が少しずつ身につく(やりはじめはきついだろうが、いじめられている側の心の痛みの比ではないだろう)。今の親がバカだと言われる側面の一つは、親が子を教育していく過程で、「他者」の視点で周りを見させる作業が決定的に欠けている点である。

電車内で傍若無人に振る舞う子どもを笑顔で見守っているバカ親、

エレベーターや電車などで、人が降りる前に強引に乗ろうとする子どもを止めないバカ親など、

子どもに「がまん」をさせない親が増えているが(私の実感でもそうである)、「がまん」とは、特にそれが社会生活における「がまん」であるならば、「他人なら自分の行為をどう思うか」という「他者の視点で周りを見る」訓練の一つなのだ。家庭教育でそれをしっかり行えておらず、かといっていじめを放置すると痛ましい事件になりかねない、ということであれば、社会的な意味での「がまん」を教えることは、いじめを予防するための、学校での最重要教育ポイントであるという結論になる。(※1)理想はさておき、現状はこうなのだ。

 

 授業が始まるときには、子どもたちをしっかり席につかせる。そういうところから、いじめ防止(あるいは軽減化)は始まるのだ。決して、そういう作業を「子どもにストレスを溜めるもの」などと思ってはならない。

 

 「そんなことはわかっている。威張ってるんじゃねえ」などと読者が思うのであれば、なぜ「いじめられている方にも問題はある」という発言をタブー視するのであろうか。矛盾の極みである。こういう発言をタブー視する輩は、

「いじめられている子は100%の被害者で、何の落ち度もない。したがって、必ず100%『おまえは正しい!』と肯定してあげなければならない」

という前提に縛られている証拠である。子どもがいくらいじめられていようとも、この前提を受け入れる必要はない。そればかりか、この前提を受け入れてしまうと、自分のことを守ってほしいと思う子どもは、どんなにわがままであっても、

「私はいじめられている!」

と訴えさえすれば、100%の保護を受けられると勘違いするバカ生徒が激増する危険性もある。おそらく、現場の先生が困っている点の一つがここであろう。周りから見るとただのわがままなガキなのに、先生がちょっと注意するだけで

「先生がいじめるのか!」

などとすごむバカガキは決して少なくないはずだ。そしてそういうバカガキに限って、親がうるさく教育委員会などに強硬に申し入れようとする「筋違い系」のバカ親だったりする。

 賢い読者ならおわかりだろう。この構造は、他ならぬ、同和利権と同じなのだ。「私は同和出身者だ」と言いさえすればさまざまな保護が受けられると知れば、実際には違っていても、「私は同和出身者だから保護しろ」と利権をあさる連中が出てくる。これはよく考えれば簡単に予想できることで、だからこそ同和利権は固定化させてはならないのだ(※2)。これと同じことである。

 

 ここまで考えると、タイトルにも挙げた、

「いじめられる方にも問題はあるって言うな!」という発言、

「太田総理」での某アイドルの発言、

2chでの上記のような発言、

これらは全て、曖昧な人間関係を、「100%守られる側 / 100%改めなければならない側」に分けようとすることで、守られる側が「何も現状を見直さなくて良い」と「甘える」温床を作る元となるのだ。そしてこういう図式でいじめを捉える限り、表面上のいじめは見えなくなっても、お互いのわだかまりはおそらく永遠になくならないだろう。その意味で、ダメダメな言説であるという結論になる。

 

  もちろん、第三者から見ても本当にせっぱ詰まっている状況の場合は、こういうアドバイスではらちがあかない。スマスマでもあったが、「技術の時間に頭に木工用ボンドをかけられる」レベルならば、いじめる側に程度の概念がハッキリと欠けているという意味で「非常事態」である。このような場合には、私は積極的に学校に警察を入れることで、「このような事実があった」ということを明確に残すべきである。こういう意味で、私はいわゆる

「学校は教える場所であって警察ではないから、犯人捜しはしませんよ」

的な立場には絶対に立たない。事実を事実として保証する意味において、いじめ関係に関しては警察を積極的に学校に入れる必要があると考えている(※3)。

 

 さて、めずらしくまとめておこう。こういう言い方が、一人でも多くできるようになるといいねということだ。

 

「いじめられる側にも問題があることがある。しかし、だからといって、その子がいじめられていいというわけではない。

(じゃあどうすればいいの?)ひと言では言えない。ケースバイケースで一つずつ対応する。

ただ、社会的ながまんを身につけさせることで、イライラに対する耐性をつけることは大事だよね。」

 

実に簡単であるが、こういう発言がもっと自由にできるようになることで、いじめを巡る「言葉狩り」が少しでも和らぐことを期待したい。

 

 

 ここまでの考察では、「周りに迷惑をかけること」についてじっくり扱っていない。私は「空気」という言葉にもかなり懐疑的だ。バカ親が増えることで、このこともしっかり考えなければならなくなっていると私は考えているが、稿を改めることにする。

 

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※1 この点で、「がまん」を軽視し、「個性」という言葉を結果的に「わがまま」とオーバーラップさせた、当時の文科省の役人であった寺脇研をはじめとする「ゆとり教育推進派」、そして、「ゆとり教育ってよくわかんないから、要するに『勉強ができないことも個性』という認識でよくね?」という理解不能の地すべりを引き起こした現場の指導者や教員たちの責任は極めて重い。寺脇などはなぜか「朝ズバ」でコメンテーターとしてシャアシャアと社会現象を論評しているが、この人間自身がゆとり教育を総括しない限り、この人間にそういう資格はないと考えている。

 

※2 もちろん、同和という発想自体を否定しているわけではない。血の気の多い読者は要注意だ。

 

※3 簡単に言えば、先生が事実をあいまいにしたり、先生だけが「これが事実です」と言っても、加害者側は納得しない可能性が高いから、きっちり「これが事実だ」と保証する存在が必要だということである。

 

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2007-01-09

スマスマ「いじめ特集」の糞ぶり

 明けましておめでとうございます。新年早々、糞の話題から始めなければならないことは誠に残念なことです。

 事前の番宣で知っていたので見たのだが、今日のスマスマ(SMAP×SMAP)では、「今 いじめている君へ」と題して、例の義家弘介などを呼び、いじめ問題を特集していた。

 

 最大限に好意的にこの番組の企画意図をくみ取るならば、子どもたちが比較的見ているであろうと思われるスマスマという番組で、「いじめはいけない」というメッセージを発することで、一人でも多くの子どもが「いじめはいけないんだなぁ」と思う一助になればいい、ということであろう。草彅剛以外は出演していないことから、SMAPの年末年始のスケジューリングがうまく行かず、空いた枠を埋める「埋草」として急遽この番組を作ったであろうことも簡単に推測できるが(何しろ、これだけ大きな問題を扱うにもかかわらず、この番組のHP自体存在しない)、そっち方向の詮索は、ここではこれ以上はしないでおこう。

 さて、この番組を見た小中校生は、「ああ、いじめっていけないんだなぁ。今自分がやってることは『いじめかも知れないなあ』」などと、自省的な感情を抱くであろうか。実際は小中校生に聞かなければわからないが、私が小中校生であったならば、答えは確実に「NO」である。

 最大限に好意的にこの番組を解釈しても、「ヒトゴト」として、「ああ、いじめが今日の特集だったのね。サトエリ泣いてるなぁ。ソニンかわいそうだなぁ。サカナくんはなんで魚のいじめの話をしてるの?あの義家ってオッサン、いきなり怒って超うぜえよ」程度の感想しか抱かないであろう。

 

 以下、いくつかのやりとりをアーカイブしておく。

 

 番組開始。スタジオに、実際にいじめられているという中一の少女を呼んで、義家と草彅で話を聞く。開始3分後、

義家 「いじめている人とは口もききたくない?それとも、理解し合いたい?」

少女 「理解し合いたい」

義家 「(#゚Д゚) いい子すぎる! 泣きたくなったら泣けばいいし、腹が立ったら怒ればいい!なりふり構わず自分を解放していい!」

 

相談して3分で、結論じみたことを、しかも怒り口調で言う。これは、「アドバイス」なのかどうか。お知り合いに臨床心理士がいれば、ぜひ聞いてみていただきたい。これが、まがいなりにも、この元教師が実際に行ったことである。

 

 開始6分。スタジオに子どもを百数十人呼んで、いじめについてのアンケート。質問は「いじめられる方にも問題があると思うか?」

答え

はい…102人(約3/4)

いいえ…32人(約1/4)

 

子どもA 「人の迷惑になることはしてはいけないと思う。例えば、つばを飛ばして話すとか。」

子どもB 「自分のことしか考えない人は問題があると思う。自己中心的な人で、周りの空気が読めない。人がいやがることを平気で言う。」

義家 「今の話聞いて、今、ものすごく腹立ってますよ。

(#゚Д゚)  お前らなんか、大きな勘違いしてねえか?

お前ら自身だって問題あるだろうが。

問題があることといじめを分けて考えろよ。

問題があればいじめていいのか?」

 

 初対面の子どもたちに、いきなり怒れば、そのメッセージが子どもたちの「心」に強く響くとでも思っているのだろうか???その程度も、この「元教師」とやらは、わかっていないのだろうか。

 私にしてみれば、この質問に対して、「はい」がなんと四分の三も占めているという現状自体が驚きである。まず「子どもたちはどう思っているのか、細かく聞いてみよう」と私なら思う。

 さらに、子どもBが「自分のことしか考えてない人」として「空気が読めない」という子を挙げている。これは、「他人の迷惑」という言葉や概念が、大人世界でのモノサシである「法」や「道徳」で測られるのではなく、「多数決」や「暗黙の了解」という、きわめて曖昧で変わりやすく、その道徳的妥当性も甚だ怪しい基準で測られている現状を物語っていると私は考える。平たく言えば、

 オレも、周りの何人かも「あいつうぜえ」と思えば、「あいつ」は「他人に迷惑をかけている奴=いじめてよい」

という価値観が支配的であるということだ。要するに道徳観念が幼稚園児程度に未成熟なのである。 

 そんな未成熟ボーイズ&ガールズに、道徳観念があるていど固まっている(という限定をつけておく)「大人」には至極まっとうな「常識」である

「問題があればいじめていいのか?」

ということばを、怒りの形でぶつけても、上記の子どもたちには、ホンネのところ

うぜえええええええええええええええええ!

意味わかんねええ!

ぐらいの記憶や影響しか与えられないと私には思えてならない。ちょうど私は2chの実況スレも観察していた(笑)が、義家のこの発言の瞬間は「義家うぜえええええええええええええ」祭であった(苦笑)。

 

 元教師、しかも、修羅場をくぐってきた教師という自負があるのであれば、

手法はいろいろあれど、子どもたちに「理解」させながら、一定の「規範」や「ルール」を身につけさせる

(誤解があるといけない。「理解が先」と言っているのではない。「理解も必要だ」と言っているのだ。)

という姿勢は、自然と「体」に身についているのではないか。それが身についていないって…。そんなオッサンが、教育再生会議とやらのメンバーなのか?

 

 この調子で、10分?15分ごとに、実際の子どもやゲストの芸能人の「いじめられ体験」が語られ、最後に義家が何かまとめたような形で、めくるめく50分は終わった。

 

 

 

 えーと、この番組、「いじめバラエティ」という、新分野を開拓するためのパイロット番組?

 いじめられた意見を語るからには、実際に多くの学校に事実上存在するいじめの加害者が「あ、オレも加害者かも」と気づかせるような構成や工夫が必要だと思うのだが、そんな工夫も全くない。サトエリやソニンもけっこういじめられていたのね?。でおしまいだろう。

 こういう展開は、得てして「不幸自慢」ともなる。実際に、現時点で「スマスマ」でブログ検索をかけると、まぁ出るわ出るわ…こういう系が。

 

 ひと言だけ言っておこう。実は、私もいじめられていた。

 

 それがどうしたんだよ。その、あなたのいじめには、「ひと言だけ言っておこう」という枕詞が必要な「重さ」があるのか?いじめをなくしたいのなら、お前の不幸自慢をする前に、いくらでもやれることがあるだろうが。そんなわけで、

 

私もひと言だけ言っておこう。

いじめられ体験をブログで書くことで、「不幸自慢」以上のどんな意味があると?

 

 明日、子どもたちがこの「スマスマ」をネタにした笑いが起き、実際のいじめは隠れたまま、被害者にとっては地獄の日々が続いていく。そんなことにならなければよいが…厳しいだろうな。 

 

 今後いじめについても考えていくが、一つ大きなヒントになる考え方は、いじめをなくすためには、いじめの現象を、

「100%の加害者 と 100%の被害者」

という枠組みでとらえてはならない、ということだ。後日、少しずつ書いていく予定だ。

 

 

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※ そしてこれは、いわゆる「奥様コミュニティ」の中でも支配的な、非常にドロドロした、日本的ムラ社会の典型的な特性だとされてきた価値観とも、奇妙なほど重なっている。

 すなわち、現在の日本の支配的な価値観の現れにも見える。ということは、親の道徳観念が幼稚園児程度に未成熟である可能性も極めて高いということも推測できる。もはや、「いじめ」は「世代をまたいだ問題」と考えなければどうにもならない問題なのだ。書いてみて、あまりにも当たり前のことだと思うのだが、念のためにここにしっかり書いておこう(苦笑)。

 

 

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