教育関連

2007-01-13

いじめをめぐる言説「いじめられる方にも問題はあるって言うな!」の罠

 さて。いじめ問題に関する私の考えを少しずつ言語化していきたい。

 いじめに関してよく出てくる言説の一つが、「いじめられる方にも問題はある」という言葉をめぐる以下のような反応である。

「いじめられている子に対して、『いじめられる方にも問題はある』なんて言っちゃうと、もういじめられている方は八方ふさがりになるわけ。だから、いじめられている子に対して、『いじめられる方にも問題はある』なんて言葉は絶対に言っちゃダメ!」

 この発言は、数ヶ月前の「太田総理」での、以前いじめられていたという某アイドルによるものだ(細かい語尾などは違うだろうが、主旨の面では正しいはずだ)。そしてこの発言に対して、あの太田光も、涙を浮かべながらウンウンうなずいていた(ここ一番でウルウルするのは、彼の常套手段である。相変わらず浅ましい)。前回の記事で批判した、スマスマのいじめ特集でも、スタジオの百数十人の子どもたちにも、「いじめられる方にも問題はあるか」という質問が投げかけられたし(そして義家もお約束のように激怒したわけだが)、2chの実況スレでも、以下のような意見があった。実に象徴的な意見だと思うし、このテーマは、いじめを考察する一つのポイントになるだろう。

 

653 名前:名無しでいいとも! 投稿日:2007/01/08(月) 23:44:17.54

いじめられてるって訴えたら「お前にも原因があるんじゃないのか?」
ってなにもしてくれない先生も義家先生も同じ。

イヤだ、って自分でいわなきゃとか正論を言って終わり。

泣けばいいとか、ちゃんとうったえなきゃダメだとか。
けどさ、これって遠回しに「言わないor言えない私らが原因だ」って言ってるようなもんだよ。

私からすれば、この先生と過去の担任どもとの違いは
お前にも原因があるんじゃないの?って口に出すか出さないかの違いだけだよ。
そしてそんなこと十分わかってるよ。

 ※3段目の「この先生」とは、義家のことだと思われる。

 
662 名前:名無しでいいとも! 投稿日:2007/01/08(月) 23:47:48.68

 >>653
「言うっきり」なんだよね
その後の職を失ってでも守る!という気概が無いという意味では
そういう先生はいじめに荷担してるも同じ

 

  この意見は、おそらく義家や「何もしてくれない」学校の先生を批判しているものだと思う。そういう前提で読めば、この人は、何に対して怒っているのかが見えてくる。それは、「いじめられている方にも問題があると考えることはいやだ」という思いである。

 しかし、こういう思いは、「それだけ追いつめられているのだなあ」という、「どうにもならない感」は伝わってくるが、落ち着いて考えてみると、ある大切な前提を忘れている発言であることもわかる。それは、

  子どもでも大人でも、「完全無欠な人間」などいない

という前提である。この前提に立てば、いじめられている方にも、周りから嫌悪感を持たれた原因はあったかもしれないのだ。ただし、だからといってその子がいじめられるのも仕方がないと言っているわけではないことに注意してほしい。

 自分にも、周りから嫌悪感を持たれた原因はあったかもしれないと考えることは、実は「自己を相対化して考えること」の一つである。いじめに遭っていない大人でも似たようなことを考えることは多々あるだろう。「自分は、周りから浮いていないだろうか。どうすれば対人関係はもっと良くなるだろうか。そのために自分ができることは何だろうか」ということ、例えばそういうことである。そのぐらいの軽い気持ちで、自分にも至らない点はあったのかもしれないと考えてみることで、逆に「自分がいるこの学校やクラスは、今の私のキャパでは『つきあえない』ので転校する」という決断が、より軽くできるようになるのかも知れない。←私は、塾と比べて学校でのいじめが格段に多い原因の一つは、学区によってこの学校に行かなければならないという「所属集団の固定化」により、今所属しているクラスや学校からはじかれると生きていけないという「後がない感覚」であると考えている。小中学生の転校が行いやすくなれば、短期的にはいじめによる痛ましい事件は減るだろう。

  子どもでも大人でも、「完全無欠な人間」などいない

という前提は、いじめる側を再教育するときにも役立つ。「むかつくから」「空気が読めないから」「人に迷惑をかけるから」など、親がバカなせいで、実にいろいろなきっかけでいじめが始まるようになったであろうが、 

例えば、

「むかつくから」…お前は誰からもむかつかれないのか?なぜそんなに自信があるんだ?

「空気が読めないから」…お前はどんな集団でも空気が正確に読めるのか?今オレが考えていることを読んでみろ!

「人に迷惑をかけるから」…お前は誰にも迷惑をかけていないのか?本当に迷惑をかけていないのか?

という問いかけを、いじめている側に、しつこく、具体的に繰り返すことで、いじめる側にも「他者の視点で周りを見る」という能力が少しずつ身につく(やりはじめはきついだろうが、いじめられている側の心の痛みの比ではないだろう)。今の親がバカだと言われる側面の一つは、親が子を教育していく過程で、「他者」の視点で周りを見させる作業が決定的に欠けている点である。

電車内で傍若無人に振る舞う子どもを笑顔で見守っているバカ親、

エレベーターや電車などで、人が降りる前に強引に乗ろうとする子どもを止めないバカ親など、

子どもに「がまん」をさせない親が増えているが(私の実感でもそうである)、「がまん」とは、特にそれが社会生活における「がまん」であるならば、「他人なら自分の行為をどう思うか」という「他者の視点で周りを見る」訓練の一つなのだ。家庭教育でそれをしっかり行えておらず、かといっていじめを放置すると痛ましい事件になりかねない、ということであれば、社会的な意味での「がまん」を教えることは、いじめを予防するための、学校での最重要教育ポイントであるという結論になる。(※1)理想はさておき、現状はこうなのだ。

 

 授業が始まるときには、子どもたちをしっかり席につかせる。そういうところから、いじめ防止(あるいは軽減化)は始まるのだ。決して、そういう作業を「子どもにストレスを溜めるもの」などと思ってはならない。

 

 「そんなことはわかっている。威張ってるんじゃねえ」などと読者が思うのであれば、なぜ「いじめられている方にも問題はある」という発言をタブー視するのであろうか。矛盾の極みである。こういう発言をタブー視する輩は、

「いじめられている子は100%の被害者で、何の落ち度もない。したがって、必ず100%『おまえは正しい!』と肯定してあげなければならない」

という前提に縛られている証拠である。子どもがいくらいじめられていようとも、この前提を受け入れる必要はない。そればかりか、この前提を受け入れてしまうと、自分のことを守ってほしいと思う子どもは、どんなにわがままであっても、

「私はいじめられている!」

と訴えさえすれば、100%の保護を受けられると勘違いするバカ生徒が激増する危険性もある。おそらく、現場の先生が困っている点の一つがここであろう。周りから見るとただのわがままなガキなのに、先生がちょっと注意するだけで

「先生がいじめるのか!」

などとすごむバカガキは決して少なくないはずだ。そしてそういうバカガキに限って、親がうるさく教育委員会などに強硬に申し入れようとする「筋違い系」のバカ親だったりする。

 賢い読者ならおわかりだろう。この構造は、他ならぬ、同和利権と同じなのだ。「私は同和出身者だ」と言いさえすればさまざまな保護が受けられると知れば、実際には違っていても、「私は同和出身者だから保護しろ」と利権をあさる連中が出てくる。これはよく考えれば簡単に予想できることで、だからこそ同和利権は固定化させてはならないのだ(※2)。これと同じことである。

 

 ここまで考えると、タイトルにも挙げた、

「いじめられる方にも問題はあるって言うな!」という発言、

「太田総理」での某アイドルの発言、

2chでの上記のような発言、

これらは全て、曖昧な人間関係を、「100%守られる側 / 100%改めなければならない側」に分けようとすることで、守られる側が「何も現状を見直さなくて良い」と「甘える」温床を作る元となるのだ。そしてこういう図式でいじめを捉える限り、表面上のいじめは見えなくなっても、お互いのわだかまりはおそらく永遠になくならないだろう。その意味で、ダメダメな言説であるという結論になる。

 

  もちろん、第三者から見ても本当にせっぱ詰まっている状況の場合は、こういうアドバイスではらちがあかない。スマスマでもあったが、「技術の時間に頭に木工用ボンドをかけられる」レベルならば、いじめる側に程度の概念がハッキリと欠けているという意味で「非常事態」である。このような場合には、私は積極的に学校に警察を入れることで、「このような事実があった」ということを明確に残すべきである。こういう意味で、私はいわゆる

「学校は教える場所であって警察ではないから、犯人捜しはしませんよ」

的な立場には絶対に立たない。事実を事実として保証する意味において、いじめ関係に関しては警察を積極的に学校に入れる必要があると考えている(※3)。

 

 さて、めずらしくまとめておこう。こういう言い方が、一人でも多くできるようになるといいねということだ。

 

「いじめられる側にも問題があることがある。しかし、だからといって、その子がいじめられていいというわけではない。

(じゃあどうすればいいの?)ひと言では言えない。ケースバイケースで一つずつ対応する。

ただ、社会的ながまんを身につけさせることで、イライラに対する耐性をつけることは大事だよね。」

 

実に簡単であるが、こういう発言がもっと自由にできるようになることで、いじめを巡る「言葉狩り」が少しでも和らぐことを期待したい。

 

 

 ここまでの考察では、「周りに迷惑をかけること」についてじっくり扱っていない。私は「空気」という言葉にもかなり懐疑的だ。バカ親が増えることで、このこともしっかり考えなければならなくなっていると私は考えているが、稿を改めることにする。

 

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※1 この点で、「がまん」を軽視し、「個性」という言葉を結果的に「わがまま」とオーバーラップさせた、当時の文科省の役人であった寺脇研をはじめとする「ゆとり教育推進派」、そして、「ゆとり教育ってよくわかんないから、要するに『勉強ができないことも個性』という認識でよくね?」という理解不能の地すべりを引き起こした現場の指導者や教員たちの責任は極めて重い。寺脇などはなぜか「朝ズバ」でコメンテーターとしてシャアシャアと社会現象を論評しているが、この人間自身がゆとり教育を総括しない限り、この人間にそういう資格はないと考えている。

 

※2 もちろん、同和という発想自体を否定しているわけではない。血の気の多い読者は要注意だ。

 

※3 簡単に言えば、先生が事実をあいまいにしたり、先生だけが「これが事実です」と言っても、加害者側は納得しない可能性が高いから、きっちり「これが事実だ」と保証する存在が必要だということである。

 

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2006-11-20

「患者は神様だろ」といばる患者が

 増えてるとのこと…。「増えている」という表現がはばかられるなら、少なくとも「けっこういる」とのこと。byこたえてちょーだい(フジテレビ)

 わがまま放題に行動する入院患者に、医者や看護師がいろいろ指示をすると、「患者は神様だろ!うるさいこと言うな!」とキレるとのこと。そんでもって症状が改善しないと「あんたらの治療がうまく行っていないから良くならないんだろう!!」と、これまたキレるとのこと。いい年こいた中年のオバハンのくせして…。

 様々なマスゴミやマスコミで、「義務教育だから給食費は学校持ちでしょう」などというあきれた理屈で、給食費を払えるのに払わない父母が報道されている。いじめも含めた、現在の「荒れる学校」に真実味があるのなら、その責任の大部分は、上記のような狂った理屈を振りかざす「荒れる保護者世代」にあるのだろう。

参考サイト(産経新聞 iza)

 ■研究会で把握している保護者からの要求■

《保育園・幼稚園》
「うちの子は箱入り娘で育てたい。誰ともけんかさせないという念書を提出しろ」
「行事のスナップ写真でうちの子が真ん中に写っていないのはなぜだ」
「子供が1つのおもちゃを取り合ってけんかになるからそのおもちゃを置かないでほしい」

《小学校》
「石をぶつけてガラスを割ったのは、そこに石が落ちていたのが悪い」
「義務教育だから給食費は払わない」
「(夜中に電話で呼び出して)飲食店での話し合いに応じろ」

《中学校》
「(保護者がクレームを言いに来た日の)休業補償を支払え」
「風呂に入らないので入るように言ってほしい」
「(けがをした生徒を病院に行かせたところ)なんでやぶ医者に行かせるんだ」

 

 ちなみに、その日の「こたえてちょーだい」 では、視聴者からの情報で、荒れている小学校や中学校の様子がドラマで再現されていた。

・(そこで再現されていたのは)小学校では、一年の前半をかけて「授業が始まったら席に座る」ことを教えた。授業自身は一年の後半から始まった。

・(同じく)中学校では、授業中の秩序がほとんど保てないため、保護者が頻繁に交代で、数人ずつ授業を参観することで、授業中の秩序を保たせようとしていた。そこでは(保護者が後ろで見ているにもかかわらず)生徒が「体罰したら教育委員会に言っちゃうよ?」などの挑発をしていた。さらに、とある生徒はカッターの刃をチキチキさせながら「ボクの親にこの事を言ったらただじゃおかないよ」などと、参観に来ていた保護者を脅していた。

 

 実は、後者の例の「生徒が『体罰したら教育委員会に言っちゃうよ?』などの挑発」は、今年の7月末にたまたま見ていた日テレ「ドキュメント06」で、再現ドラマではなく、実際の様子が放送されていたのを見た(もちろん生徒の顔にはモザイクがかかっていた)。その舞台は千葉県の八柱市の某マンモス小学校だったが、生徒の発するこういう「殺し文句」は、単にマスゴミに汚染された我々一般ピーポーのイメージの中だけではなく、実際に存在するものであることを痛感した。

 さらに、昨今ちょっとした流行になっている、「いじめがなくならなければ自殺しますという予告をなぜか伊吹文部科学大臣に送りつける運動」にも、「学校で困ったことがあったらすぐに教育委員会に言えばいい」という「困ったら上に言えばいい」的な発想をつきつめたような行動原理が裏にあるように思えてならない。言うのに忍びないが言っておこう。周囲に言って解決しないことを、伊吹文部大臣に言って、彼が「いじめはやめろ」と言えば、君はいじめられなくなるのか?そんな想像すらできないガキが増えてきたのは一体誰のせいだろう?言うまでもなく、まず第一義的には「親」だろうね。

 

 親の世代が、

・お客様は神様だ

・患者は神様だ

・生徒は神様だ

という基本的価値観を持って生きている限り、その価値観を無意識のうちに刷り込まれている子どもたちが、それを煮詰めたような行動をとるのは至極当然である。どうやら、「公共心」が最も必要とされているのは親の世代のようだ。教育基本法の改正案の中に、「保護者教育」も入れるべきであったな。

 

 以前も記事で書いたが、現状として、こういうバカ親が増えている以上、教室の秩序を守るためには、現場の教師はどんどん体罰を行えばよかろう。今一番教師に必要なことは、

「教育委員会に言いたければ言えば?」

と言える図太さであろう。もちろん、これに付随する教師の必須能力は実に様々なものがあり、なおかつそれは非常に高度なものなのだが、そういう高度な能力は、新人教員が教員免許を授与されるときに、きっと審査され、見事にパスしているのだろう(笑)と皮肉っておく。

 

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2006-05-06

戸塚ヨットスクール事件と体罰

 たまたま今朝、よみうりテレビの「ウエークアップ」を見ていたら、戸塚宏校長の(実刑を受けた後の)釈放のニュースを扱っていた。

  ゲストとして来ていた福島瑞穂社民党党首は、例によって「やっぱり体罰は良くない」の繰り返しで、体罰がなぜ、どのように、どの場合に悪いのか、そしてどのような場合でも普遍的に体罰が絶対悪であるならば、なぜ絶対悪なのかを全く説明しようとはしていなかった。驚きだったのは、司会の辛坊治郎氏も、他のゲストも「体罰を少しでも肯定すると風当たりが強くなるだろうが」という気持ちで、びくびくモノでコメントをしていた点だ。

 戸塚ヨットスクールのやり方にどれだけの効果があるのか、あるいは戸塚宏校長の考え方がどれだけ正しいかは、情報が部分的なものに限られるので私には判断し切れないが、この問題に対するマスコミの扱い方には決定的に欠けている点がある。それは「程度」の問題である。

 例えば、授業を成立させるための最低限の「秩序」( 1.全員が椅子に座っている、2.教師が話すときは生徒は私語をしていない この二つだろうが)を生徒が成立させていない場合は、口頭で注意・指導してもらちが空かない場合に限り、肩や手をつかみ、強制的に席に座らせるなどの「肉体的に接触する行為」は必要だろう。現時点では、こういう行為によって、例えば生徒の肩にアザができたとしても、生徒が「肉体的苦痛を感じた」と訴えれば、法務省の見解によると「体罰」となるのである。そりゃ学級崩壊も起こるわけだ。

 重要なことなので繰り返しておこう。法務省としては、「肉体的苦痛=体罰」という判断なのだ。 「苦痛は良くない」という発想で体罰を禁止しているのであれば、「生徒を叱ったりすることで、生徒が「苦痛」を感じる」という論理で、生徒を叱ることすら禁止となるはずなのだが。法務省の役人はこの程度のことすら想像できないのが痛々しいが、この点については別の機会にゆずる。

※体罰については、学校教育法に関連した法務省の見解がここに紹介されている。 

 あるいは、体罰は禁止されていることにつけあがる子供に対しても、体罰は必要だろう。辛坊治郎氏は、小学6年くらいになれば、「殴れるモノならなぐってみーや。教育委員会に訴えるで」と挑発する子供が出てくることを紹介し、そういう時には「殴ってもらった方がいいのになあ」という言い方で、実に控えめに「体罰もときにやむなし」という意見を述べていた。しかし、そう言う辛坊氏でさえ、体罰をめぐる「状況判断」や「程度」の問題には触れていなかった。

 つけあがる子に対しては、つけあがることは何の得にもならないということを教えることが「指導」であり「教育」である。体罰が行えないことを盾につけあがる子に対しては、体罰を加えること以外、つけ上がることをやめさせる有効な手だてがないのであるから、体罰を行うこと自体が「指導」や「教育」になる。したがって、そういう状況においては、体罰は必要だ。実に簡単な論理である。 

 しかし、だからといって教師がどんな体罰をふるっても構わないというわけではない。あるクラスを担当し始めた時から、教室での授業は集団で行うものであり、ゆえに最低限の秩序(実際には別の言葉でかみくだくわけだが)が必要であること、そして、生徒の集中力が持続するようなリズムや口調、授業の展開法を研究することも当然のごとく必要である。授業はひどいのに、秩序が保てないからと言って、平気で生徒に体罰を与える。こういう方針には私も絶対に反対だ。

 かく言う私も、体罰を行ったことは一度もないのだが、しかし、だからと言って「いい授業をしてさえいれば体罰を行う必要は絶対にないはずだ」などという楽観的な見解を持つつもりも絶対にない。電車に乗っていてもおわかりになるだろうが、親がそばについていながらも、全くしつけを受けていないようなクソガキ+クソ親のペアは、無視できない割合で厳然と存在しているのだ。あなたが学校の教師だとして、そのクソガキの方があなたの担当する教室にいて、授業中まともに座り続けることさえできないとすれば・・・そういう想像力は、上記のような楽観論をふりかざす連中にはないのであろう。これもきわめて嘆かわしい現実だ。

 こう考えていくと、体罰の是非を巡る問題は、「体罰が行われる状況と程度を細かく判断し、そのつど行き過ぎかどうかを判定する」、これに尽きるのだ。一つ一つのケースを丁寧に振り返り、教師の「懲戒権」の範囲内と考えられるような「最低限の体罰」とでも呼べるような合意を作ることから始めることが必要である。この点では、現状の法務省の見解は間違っている(=学校教育を成立させるためにかなり有害だ)ので、これらの合意に基づいた法的整備も必要になるだろう。 

 この立場に立てば、現場の教師は嫌がるだろうが、教室にカメラを設置し、いざという時のために、教室内を必要に応じてモニター/録画できるようにしておくことも必要だという主張にもなる。学校では「考えられないこと」かも知れないが、実は予備校業界では当たり前のことである。本部が経費をケチっていない限り、どの教室にもカメラが設置されている。まぁいつ見られても困らない授業をしていれば、いつ見られても何も困らないはずだが(笑)。

 とまあ、私などは考えるのだが、話を番組に戻して、釈放された戸塚校長を取材したVTRでも、体罰を肯定する戸塚氏に対して「でも訓練生が死にましたよね」という質問の仕方を繰り返し行う(or放映する)。その尋ね方は、まるで「体罰を行えばまた死人が出るでしょ」と言わんばかりである。視聴率が欲しいために、少しでも強烈な聞き方をした方がインパクトが出るだろうというディレクターの下劣な根性には開いた口がふさがらない。そういう聞き方をするのなら、「戸塚校長のやり方は、これからも続ければ必ず死人が出る」と推定できるだけの材料をそろえ、それらを丁寧に確認しながら聞くべきであろう。それだけ丁寧に聞くつもりがあればの話だが。

 マスコミですら、「体罰肯定論者=悪の権化」という枠組みでなければ体罰を考察できない。これが、現状の体罰をめぐる貧困な言論(?)の状況だ。だからどのコメンテーターも、「状況と程度による」とはっきり言えなかった、もしくはそういう発想自体を忘れていたのであろう。

 いわゆる「平塚五遺体」の事件も重要なのだろうが、どのニュースやワイドショーでも、ひたすらこのネタを延々と流すヒマがあったら、こういうテーマをじっくり扱って欲しいものだ。特に、体罰については現場の教師の悲痛な叫びがいくつもあるであろうし。

 

 このようなことを書いてきたが、体罰における程度や状況の問題を一切語らず、ただ「体罰は教育だ」と断言する戸塚氏の主張にも私は全面的に賛同するものではないことを断っておく。

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